~ドマニシ原人~

2020年4月

 4月9日の神戸新聞に相模原殺傷事件に関連して社会学者の大沢真幸氏の主張が掲載されていました。その中にドマニシ原人のことが書かれてあり、初めて知りました。ネットで調べてみると170~180万年前に存在していた人類の祖先?で、その頭骨が中央アジアのジョージア国のドマニシの郊外で発見されたのです。そして驚くべきことに、それは歯が全部抜けた状態で数年は生きていた思われる頭骨でした。100万年以上前の大昔、原人たちは生きていくのに必死であったでしょう。生きていくとは、すなわち食べ物を獲得するということ、それがすべてであったと想像します。従って、食べ物を獲得しないもの、自分たちが生きていくことに直接役に立たないものは、邪魔もので打ち捨てられたのではないかと思っていました。ところが頭骨は、歯が抜け落ちた原人に手間暇をかけて食事の下ごしらえをしてあげた共同体の存在を示す証拠ではないかと推測されたのでした。それも数年にわたって。

 大沢先生は以下のように記されています。「ジョージアでは歯が全部ない状態で何年も生きたと思われるドマニシ原人の化石人骨が見つかっている。この共同体で老人や障害者が“生かされていた”という証拠です。これは生物としてはマイナスのコストに思えますが、苦労して弱い人たちを守ることにこそ、集団が生き延びる価値があったのです。功利主義的な考え方からすれば、社会の持つ目標に対して貢献度が低い人は一緒に生きていく価値がない。しかし、私たち人間の“共同性”の根拠はもっと別のところにあるということです。植松死刑囚は生きて何かポジティブなことを行うのが人間の価値だと考えているように見えますが、私は逆だと思う。人はむしろ死に向かいつつある弱い存在であることに善きものを感じるのではないでしょうか。・・・中略・・・人間は本源的に信じ難いほど他者を信頼し、相互に依存しあう生き物です。他人のために生きているとさえ言える。誰かを助けるとは本来、自分の欲望を我慢して行うのではなく“助けずにはいられない”のです。だから、特に幼い子どもや老人、障害者など弱い人たちを助けるのは、人間のベーシックな衝動です。いわば“迷惑”をかけられるのは心地よくさえあるのです。しかし、現代の資本主義のシステムや倫理は、この衝動に反しています。私たちはそれに違和感があるのに、うまく言葉にできていない。・・・・」

 私たちビジネスの世界に生きるものは、「地域貢献」「人間的成長」「世のため人のため」などの美辞麗句を用いて、どこまでも利益と効率を追い求める傾向が多分にあります。そして競争社会に勝ち抜くことこそが、真に平和で繁栄した社会を築く礎であると信じています。しかし、この度、大沢先生の思想に触れることによって、本当にそうなのって思うようになりました。平和の価値は言わずもがなですが、繁栄って何なの、繁栄したからどうなの、世の中の繁栄と一人一人の幸せは同じなの?どんなに繁栄しても人間が死にゆく弱い存在であるという事実に変わりはありません。何が真実なのか、よく分からなくなりました。今も、日本はコロナの真っ盛りです。世界中で何十万の人が亡くなっています。日本も緊急事態宣言が出され、人との接触削減を強く求められています。当然のことです。テレビでコロナ感染者の治療に命懸けで当たっておられる医療関係者を度々目にします。まさに人間の“助けずにはいられない”衝動の現れと感動しています。有難いことです。彼らがこの世に存在しなかったら人類は絶滅するかもしれません。そしてその医療関係者でさえも多く亡くなられています。自分が生き残りたいという人間の最も大きな欲望さえも省みず、現場で治療に当たられる人々、そうした行為こそが、私たち人間に天から与えられた“他者のために生きる”という根源的な使命なのだと思います。他者のために、医療関係者でない私たちにもできることはたくさんあるはずです。私も死にゆく弱い存在ですが、どんな時も自分ではなく他者を優先できる、そんな人間でありたいと願っています。

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