~ケチ~

2021年11月

 妻からよく妻の昔の元婚約者の話を聞くことがあります。話の内容は、こんなものです。

時代はもちろん昭和です。妻や彼を含め男二人、女二人で旅行したときのことです。男二人はビールのロング缶を1本ずつと、あてを2,3袋、食し、女二人は缶ジュース1本ずつだけ飲んだ。そのあと彼は勘定は割り勘だと言い張りました。女性は缶ジュース1本しか飲んでないのに、一人400円集金されたとのことです。もう一つあります。彼と妻が二人、東京に行った時のことです。東京から帰る駅でのこと「行きは儂が(二人分)出したから、帰りは自分が(二人分)出しや」と帰りの電車賃を二人分出すように言ったそうです。行きは間違いなく割り勘であったと妻は言います。60代の今なら記憶を疑わなければなりませんが、20代ですから間違いないと思います。(この話は妻との結婚前(約40年前)にも聞いてますから)結局、妻は不承不承、帰りの新幹線料金(東京~新神戸間)、二人分を払ったそうです。このような彼のお金に対するケチぶりの逸話は、このほかにもたくさん聞きました。本当にケチな奴、とけなすべき相手かもしれませんが、実のところは、彼のケチのお陰で、私は妻と結婚することができたわけですから、彼には感謝しかありません。

 ところでケチとは全く相反する物語を最近読みました。本のタイトルは「食えなんだら食うな」著者、関 大徹(明治36年生まれ、没年不詳の禅僧)その中の一節です。少し長いですが転載させて頂きます。“去年、あるおおやけの団体から、寄付をたのまれた・・中略・・檀家がないから一般的にお寺の収入の基礎になっている葬儀や仏事などのお布施によるみいりがまったくない。住職の関 大徹以下、一山の衆徒は托鉢によって、なんとかその日その日の糊口をしのいでいる。・・中略・・赤字家計もくそも定収入がないからゼロ家計にひとしい。けれども誰もそれを苦にしない。米櫃に一粒の米もなくなったらどうしようという恐怖感もない。それはすでに触れたように「食えなんだら食わぬ」までだからであり、一山は餓死覚悟の集団だからである。そういうお寺なのに不思議にお金のあることがある。・・中略・・寄付の申込を受けた時、私は会計係を呼んで、今どれくらい出せるか、とたずねた。「200万円」と、彼は答えた。しからば、と私は相手に告げた「200万円、出させていただきましょう」これには相手も魂消たらしい。・・中略・・吉峰寺は飢餓覚悟の集団だから貯えておく必要はあるまい。・・中略・・寄付というのは、まったく無償の行為である。無償の行為であってこそ、「徳」として完成する。人間なかなか徳を積めるものではない。自分のためなら死に物狂いで働くこともできるが、他人様や仏様のために、一切を投げうつという真似は、天地がひっくり返ってもできなのが普通であろう。”食うや食わずに近い修行生活をしている禅寺の住職はありったけのお金200万円を寄付してしまうのです。著者も書いているように凡夫にできることではありません。私たちは明日のパンを得ようと、将来の安定した老後を確保したい、惨めな死に方はしたくない、と必死に貯えます。それは凡夫にとっては至極当たり前のことなのかもしれません。しかし、どう必死に頑張ろうとも、結局は「1円も持たずに一人で死んでいく」のです。ましてや本来、支払べきものを支払わずに貯えたお金になどに「徳」はかけらもありません。支払うべきものを支払わずに「得」をしたと喜んでいる人間は、「徳」というなにものにも代えがたい喜びを失っていることに気が付かないのです。

 イエローハット創業者の鍵山秀三郎先生はケチについてこう言われています。「世間では、いったん懐に入れたお金を絶対に出さない人のことを「ケチ」と呼びます。私はその程度の人を「ケチ」とは思いません。本当の「ケチ」はせっかく使える自分の手や足や口や耳や頭を持っていながら、出し惜しみして使わず、あの世にもっていってしまう人。この人が最大の「ケチ」だと思います」お金をケチり尚且つ、勤勉努力を惜しむ人間は救いようがありません。関老師のように食えなんだら餓死するまで、と覚悟を決めたら、お金を出し惜しみすることもなくなり、死ぬ直前まで勤勉に働くことでしょう。一歩でも近づきたいですね。

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