~何のために~

2021年5月

テレビを見ていると、こんなセリフを聞くことがたまにあります。「あなたは一体何のために○〇をやっているのですか?」私はこの質問が「あなたにとって○○とは?」と並んで嫌いです。なぜなら質問する人が上から目線であったり、自分が何か利益を得ようとする姿勢を感じたりすることが大半だからです。「あなたは一体何のために○○をやっているのですか?」と聞かれ人が、オリンピックに出るためです、看護師になるためです、など具体的なはっきりとした目的のある人は返事に窮することはないと思いますが、そうでない人、ただ何となく生きていると思っている人などは返事に困ります。多くのひとは何のため、と問われたら何か目標や目的を答えなければならないと思ってしまいます。でも全ての人が目標をもって生きているとは限りませんし、私はそれでいいと思っています。仮に誰かが私に「あなたは何のために働いているのですか?」と尋ねられたら、きっと私はこう答えるでしょう。「世のため、人のためです」と模範回答します。質問した人はきっと、しらけるでしょうね。

そもそも「何のために」という質問は辛辣な言い方で恐縮ですが、私は愚問であると思います。4歳の男の子が無邪気に遊んでいるのを見て、「君は何のために遊んでいるのですか?」と聞いたら子供は何と答えるでしょう。愚問ですよね。子供が遊んでいるのは、ただ遊びたいからで、何のためでもないし、ほかに他意はありません。ところが仕事となると、はっきりとした目的意識を持たないと良い結果は望めません。弊社の行動指針にも「成り行きで行動するのではなく目的意識をもって仕事に臨みます」とあります。朝、会社に来て、今日は何をしようかな、などと考えているようでは、絶対に成果は得られません。ビジネスでは長期計画、短期計画を立案し、明確な目的意識をもって、明日はこれとこれをやる、と準備をします。従って、その仕事は目標達成のためとはっきり言えます。そして、社長や社員は目標達成したら幸せになれると思うのですが、現実はそうとは限らないのです。

 多くの人が色んな望み、目標、目的を持ちます。そしてそれが達せられた時に喜びや幸せが待っていると考えがちです。私もその一人です。喜びは感情ですから論ずる必要はありませんが、幸せは色んな定義がされます。恐らく百人百様のはずです。ところで2歳や3歳の子供が幸せを目的に生きているでしょうか。そんなことはまずあり得ないですね。何のためでもなく、ただ生きている、それだけです。私は素晴らしいことだと思います。

禅宗に「只管打坐(しかんたざ)」という考え方があります。意味はただ座る、何のためでもありません、悟りを開くためでもない、ただ座る、という意味と理解しています。何のためにという思考の源泉は何かを得るためというのが常です。目標達成してお金や名誉や地位を得る。よくされる思考です。それに対して只管打坐にはなんの思考もありません。あるとすれば座る、という意識だけだと思います。目的はありません。しかし私たちは何かのために頑張るのです。その何かは成果であり結果です。そしてその結果に幸せがあると考えがちですが、そうではありません。どこまで行っても結果になど幸せはありません。私はこう考えています。○○のために頑張るのではなく、○○を目指して頑張るその一瞬、一瞬、その過程そのものに価値があると。つまり努力そのことに意味や価値があり、結果は関係ありません。どのような結果も幸せとは関係ありません。何のためでもない。只管打坐、ただ座るのみです。

感謝合掌

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