ゆるすということ

1月2日になってやっと家族4人がそろいました。4人が一緒に夕食をとれたのはその日だけでしたが、私にとって最高に至福の時でした。以前この講で”妻と二人の娘がいれば、ほかに欲しいものなど何もない”と書いたことがあります。もちろん今でも、この気持ちに変わりはありません。しかし、人間というのは欲が出るものですね。長女が27歳、次女が25歳にまでなると、今度は孫が欲しいと想う様になってきました。もちろん、孫を見るためには婿がいないことには始まりません。ところが娘たちにそれらしい相手はどうもいないようなのです。テレビを見ていたら、私のように結婚適齢期の娘や息子をもっている親たちが、本人に代わって婚活をしています。本人が動かないのであれば、親が動くしかないのかと、今は仕事のカバンに娘の写真を入れて持ち歩いています。親バカとお笑い下さい。

でも、いい人がいたら紹介して下さいね。————-欲深でごめんなさい。

 昨年の11月のこの講で人は「信じること、許すこと、愛すること」を学ぶために生まれてくると書きました。いみじくも1月28日と翌週の朝日新聞夕刊に、日野原先生(聖路加国際病院理事長)の連載「100歳・私の証あるがまま行く」が”「ゆるす」ということ”のサブタイトルで記されました。お読みになった方も大勢いらっしゃるかとは思いましたが今月はこの日野原先生の文章を一部転載します。

 今世紀に入っても、世界は動乱が続いています。この現状を打破するためにはどうすればよいか、私は懸命に考えてきました。そして得た答えは、「ゆるす」ということです。———-中略——————-

21世紀の初め、9.11同時多発テロによってニューヨークの世界貿易センタービルなどに航空機が激突し、3千人もの市民の命が失われたことは、今も世界の人々の脳裏から離れない大事件です。

 当時のブッシュ大統領はこの時、「世界中のすべてのテロ組織を捜し出し、撲滅するまで我々の戦いは終わらない」と宣言しました。そして旧約聖書の出エジプト記の「目には目を」という言葉のように、復讐のための報復戦争が正当との考えを示しました。

 しかし一方で、新約聖書に記されたイエスの言葉「汝の敵を愛せよ」を体現した遺族がいたことを皆さんはご存知でしょうか。女性の夫は、世界貿易センタービル最上階でソムリエとして働いていて、テロの犠牲になりました。しかし、夫を亡くした直後、彼女はメディアの取材に対して、次のような内容を答えたそうです。「夫は報復を決して望まないでしょう。彼は犯人と話し合いたかったはずです。彼の死への報復として、私たちが他の人間の血を流すべきではありません」メディアは彼女の夫と彼女を「米国が誇るべき勇気ある人間」だと評しました。————中略———

 9.11の同時多発テロの後、米国はすぐさま報復に出ました。その攻撃で亡くなった、子供を含む罪なき市民の数は、兵士よりもはるかに多かったと伝えられています。そして報復はさらなるテロを引き起こし、この憎しみと戦いの連鎖は、21世紀をテロの世紀にしかねない様相を呈しています。この絶ちがたい鎖からの解放のためにこそ、「ゆるし」が必要となってくるのです。

 愛することの裏には、つらいことや血の出るような苦しみも存在します。本当の無償の愛というマントの裏地には、つらさで血のにじんだ布が張られているのです。人をゆるすことは時として、血の出るような苦しみを伴います。その血の代償として、人は愛を受け、救われるのです。——–中略————

 私は「寛恕(かんじょ)」という仏教的または儒教的な教えの中にも、キリスト教の説く愛と共通した仁愛の精神が含まれているものと思います。——–中略——–ソムリエだった夫を同時多発テロ亡くした女性が「夫の死の報復に他の人の血を流してはならない」と語りました。私はこの夫妻のような市民を米国が誇れるようになることを願います。また、彼女のように行動することが、人間の本質的な生き方だと思うのです。

 作家の曽野綾子さんは、ある雑誌でこんなことを述べていました。「人間というのは約束を守らなかったり、裏切ったりするものなのです。自分は違うと言い張る人もいるかもしれませんが、私はそう思っています。それは自分の中にもそういう心があることを知っているからです」

 最後に聖書の言葉を紹介します。「人を裁くな。そうすればあなた方も裁かれることがない。人を罪びとだと決めるな。そうすればあなた方も罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすればあなた方も赦される」

 自分の愛する人が不当に死に追いやられたとき、日野原先生の言われるように、あるいはソムリエの妻がしたように行動することは、簡単にはできないでしょう。もし本当に赦すのであれば日野原先生の言われる通り、血の出るような苦しみを伴うことに違いありません。しかし、本当に多くの人々が、血の出るような苦しみに耐えながら、その対象たるものを赦すことができるでしょうか。そもそも血の出るような苦しみというものに耐えられる人がどれだけいるでしょうか。私のような凡人は、ただそんな人間になれたらいいな、なりたいなと思いつつ、実際には日々の仕事、生活の中で、ほんの小さなこと、わずかなことで腹を立てているというのが現実です。それでも、ゆるすということが絶対的な価値であるということだけは、行動できるかということは別にして、揺るがない信念としてもっています。なぜなら、それが人として生まれてきた理由のひとつだとからです。

 2008年に飯田先生の「生きがいの創造」を読んで以来、少しずつですが絶えず、生まれ変わりに関する本を読むようになりました。このたびも、義姉から借りた「子供はみな前世を語る」(キャロル・ボーマン著)という本に出合うことが出来、ますます”人間は必ず生まれ変わる”という信念が強固になりました。この事実、事例をより多く知ることにより上述の”人は人をゆるすため生まれてきた”という想いは、想いからより事実に近いものとして受け入れることが出来るようになりました。だからといって自分が信じているものを皆さんに押し付けるつもりは毛頭ありません。私は工務店の社長であって、宗教家とは違います。ただ、もしこのような考え方を自分のものとすることが出来れば、人は心から救われるのではと信じてやまないだけです。皆さんもだまされたと思って、一度この「生まれ変わり」(仏教では輪廻転生という)に関する書物を読まれてはいかがでしょうか。たくさんの出ていますよ。