~渋沢栄一~

2022年2月

 北京オリンピック、日本は沢山のメダルが取れて良かったですね。でも氷の穴にはまった羽生結弦さんと、スーツの規定違反で失格となった高梨沙羅さんは、ちょっと不運でした。二人には残念な結果となりましたが、一生懸命にやった結果ですから、私は100点満点を上げたいと思います。日本中の皆さんもきっと同じ気持ちだと思います。

昨年のNHK大河ドラマの渋沢栄一氏は「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」と言われています。糟粕とは酒粕、つまり残り粕です。一生懸命やった結果、成功しようが失敗しようが、そんなものは関係ない、残り粕のようなものである、と言われ、大事なことは結果ではなく一生懸命やることそのものであると説かれています。そしてこうも言われています。「いかに山中に隠退していても、この世の糧を食いつつある間は、その生活は他人の共同生活に影響を及ぼすものである。ここにおいて人は生まれ落ちてから死ぬまで、社会の一員として、重き責任を負わなければならない。その責任とは他事にあらず「働」の一事である」つまり、飯を食っているのであれば、働く責任がある、ということです。それも死ぬまでです。実際、彼はその通りの生き方をしました。

ところで、働くことの重要性を否定する人はいないはずですが、働くこと、つまり仕事に対しての考え方は幾通りかあると思います。大きく分けると、この二つに集約されるのではないでしょうか。一つは、自分や家族が生きていくため、家庭を守るため。家庭を持っている人は、幸せの根源は家庭にある、従って仕事はそのための手段としてある。という考え方です。多くの人がそうだと推量します。私も経営者になるまでは、ずっとその考え方で働いていました。もう一つは少数ですが、仕事は世のため人のため、にするもので結果、仕事を通して人間的成長を図る。もっと言えば、仕事はなにかを得るためという手段ではなく、仕事することそのものが目的である、という考え方です。今の私はそう考えています。もちろん、二つの考え方に優劣などありませんが、もし、渋沢栄一氏の言うように、死ぬまで働くことが人としての義務である、とするならば、後者の方が適しているように感じています。なぜなら、前者の考え方は、自分のため、家族のため、何かのためという目的を掲げ、その手段として仕事をとらえるわけですから、往々にして起きる思い通りにならないことの連続に対して、「何かのため」を大義名分として、何かを得られないとき、簡単に仕事を変わろうとするのではないでしょうか。一方、働くことそのものを目的とするならば、思い通りにならないことの連続に対しても、仕事を変えようとは思わないものです。なぜなら、今やっている仕事は天が与え給うた天職であると認識しているからです。その仕事は何かを得るためではありません。ですから、何かを得られないからと言って、投げ出したりはしないものです。仮に、何かを得ようとして、何かを得られないとき、何かを得られないのは、自分に責任がある、自分の努力が足りないからと、より一層、仕事に励むものです。万一、その結果、何も得られなかったとしても、大丈夫です。渋沢氏は「成敗は身に残る糟粕」と言って、その真摯な努力こそが人間として何よりも大切である旨を説かれており、私も全く同感です。

羽生結弦さんも高梨沙羅さんも本当に真摯な努力を積み重ねてこられました。ですからメダルを取れなかったことなど、歯牙にもかける必要はありません。メディアも国民もやたらとメダル、それも金メダルにこだわっていますが、メダルなんか、くそくらえです。本当に大切なもの、それは目に見えません。それを見失ってはいけないと思うのは私一人だけでしょうか。  精進感謝