~少聞~

2018年1月

 法句経152番はこのように書かれています。『聞くこと少なきひとは、かの犂(すき)をひく牡牛のごとく、ただ老ゆるなり。その肉は肥ゆれど、その智慧は増すことなからん』この言葉は友松圓諦先生のCDで知りました。以下に友松先生の解説を記します。
 “お釈迦様には阿難という弟子がいました。いつもお釈迦様の側にいて、お釈迦様のお話をよく聞いていたので「多聞第一」と呼ばれました。多聞とはその字の通り、たくさん聞いて智慧があるという意味です。「聞くこと少なきひと」はこの反対ですので“少聞”と呼び、聞くことが嫌いな人のことです。特に年寄りは得てして聞くこと少なき人が多い。そして周りの人に聞かせよう聞かせようとするのです。ところが勉強はしない、研究もしない、何を聞いてもあまり驚かない、好奇心も知識欲も減って聞くことが少なく、そのくせ何でも知っているつもりでいて、本当は何も知らない。知ったかぶりをしているのが老人の癖です。田畑の土を耕す犂を引く牡牛は、年をとると太る一方です。牡牛は食べるばかりで太っていきます。しかし牛ですから勉強しないので智慧が増すことはありません。人間も同じです。若い人からものを聞いたり、世間からものを学ばなければ、智慧が増えず、ただ年をとってしまうだけの存在です。“ 
友松先生のお話を聞いて、半分は私のことかと思いました。私も妻からよく言われます。
『お父さん、少しは人の話を聞いたらどう。人がしゃべっているのにまともに聴いてないじゃないの。たまに聴いてるかと思えば、私の話で思いついた自分の話をして・・・・・』
私の知る限り人間は基本的におしゃべりが好きです。特に自分が話すのが好きです。でもそういう人に限って、人の話は聞きません。人がしゃべり出すと、プイッと横を向くか、その人の話に首を突っ込み自分がまた話し出す。老人でなくても人は、人に聞かせよう聞かせようとする悪い癖があります。ではなぜ人は少聞で多弁になるのでしょうか。いろんな理由が考えられます。ひとつは自分には関心があるが、自分以外の人には関心がない。もうひとつは、聞くことによって自分が人生で積み重ねてきたことを否定されるのではという恐れ、あるいは本当は自分の心の奥底で気付いている認めたくない間違いを、認めさせられるのではないか、という恐怖。自分の積み重ねてきたものを否定されたり、認めたくない自分の間違いを認めてしまえば畢竟、自分を変えざるを得なくなる。自分を変えるということは大変なことです。変化していくために新しいことを学び覚え実践していくというのは大変な苦労です。それが嫌だから聞かないのです。そして聞きたくないからしゃべるのです。人間は基本的にしんどいことは避けたい、楽に生きていきたい、そう考える動物です。
 しかし、諸行は無常です。おなじことは絶対に続きません。これは宇宙の法則です。だとしたら自分も変化していかなければなりません。「変化に対応するものだけが生き残る」という有名な言葉もあります。変化していくことは苦であると前述しましたが、苦であるからこそ成長し、そこに本当の喜びがあるのではないかと信じています。「苦」なくしては成長もなければ喜びもありません。私達はいつも多聞を意識し、少聞を慎まなければなりません。
そんなことで私は会社の行動指針に「人の話は素直に聞きます」と作りました。