声
「目は口ほどにものを言う」ということわざがあります。その人の目には、言葉で伝えるのと同じくらいか、それ以上の気持ちが表れている、というような意味かと理解しています。
確かにその通りだと思います。ですから相手の目を見れば、相手が何を考えているのかが、ある程度分かるのではないかと考えられます。ただこれは私の場合、未熟だからでしょうか、それともアスペルガーのけがあるからでしょうか、相手の瞳の中にその人の感情を見出せるのは、相手が怒っている時か、喜んでいる時か、悲しんでいる時くらいしかありません。それに、そもそも日本人は外国人のように、相手の目を見つめ合いながら話し合うという習慣はあまりないのではないでしょうか。目を見て相手の気持ちを推し量るのは難しいです。
それよりも皆さんは、同じ内容のことが、ものの言い方ひとつで全く違った形で受け取られることをよく知っておられます。同じ言葉でも、喜んでいる時、怒っている時、悲しんでいる時とではまるで違って聞こえます。子供でも、赤ちゃんでも、いや、子供だから、赤ちゃんだからこそ、その声で、相手の気持ちが読み取れるのです。そう、つまり話し方であり、声です。声にはその人のすべてが現れます。すべてとはその人の全人格であり、その人のその時の気持ち、感情、想いです。弊社は毎日、朝礼を実施していますが、全員がその日の行動予定を発表します。その声ひとつに社員一人一人のすべてが現れているように思います。もちろん社長の私もそうです。今日こそは朝礼で説教しない、訓示を垂れないと思い朝礼に臨むのですが、始まるや僅か数分後には訓辞を垂れています。説教をしています。その時の私の声にはきっと私のイライラ感と軽薄さがにじみ出ていることでしょう。およそ人のイライラした声を聞いて愉快になる人は絶対に無いと断言できます。それが分かっていながら、朝一番からそれをやってしまう自分には、はたして経営者としての資質があるのか、大いに疑問です。どんな理由があっても、イライラ感、怒り、不満、憎悪、焦燥感、恐怖感、怠惰感、倦怠感、自分さえ得をすればいいというものを持ったまま、声を出せば、いかに繕った声を出しても、聞いた人は必ずそれを見抜いて、不快になります。反対に、幸せそうに、楽しそうに、嬉しそうに、何の計算もない、いつも人のことに関心を持ち、その人に共感し、希望に満ちた明るい声で話をすれば、聞いた人の多くは幸せな気持ちになることでしょう。
人間の学び方には色々ありますが、今月の講では声の出し方を学びたいと思って書きました。問題解決はその根本を正すというのが正道であることは分かっています。しかし私たちは仏になれる仏性はあっても、仏にはなれません。死ななければ仏にはなれない凡人です。煩悩具足の塊です。上述のようなマイナス感情から完全に離脱することはできません。だから形から入るのです。つまり、いつも意識してよい声で話すのです。よい声を出すのです。それもこちらから。『こちらからあたまをさげる こちらからあいさつをする こちらから手合わせる こちらから詫びる こちらから声をかける すべてこちらからすれば 争いもなく なごやかにゆく——-中略——-仏さまへも こちらから近づいていこう どんなにか喜ばれることだろう』坂村真民先生の「こちらから」という詩の一節です。