~責任~
2020年10月
もう20年以上前のことです。当時、弊社は賃貸物件の管理業務を少しですがやっていました。ある時、30代の独身女性が週5日勤務のパート社員として入社してくれました。彼女は未経験でしたが、その管理業務を真面目にコツコツと取り組んで成果を出してくれました。数か月して私は彼女のその働きぶりに感謝してこう言いました「あなたはとてもよくやってくれています。来月から正社員となって、今のこの業務を引き続き責任をもってやっていって下さい。宜しくお願いします」すると彼女は「責任を持たされるのですか?」と怪訝な顔で言いました。私は「仕事の結果に対する責任は社長である私にあります。ただ業務を実施するという責任はあなたにあります。それはどんな仕事でもそうでしょう」しかし、彼女は次の日から来なくなりました。本当のところはよく分かりません。多分、気楽な立場で仕事をしたかったのではと想像しました。だから「責任」という言葉に嫌悪感を持ったのではないかと推量しています。もっと謙虚によく話し合うべきでした。言葉が足りなかった、と反省しています。
責任を取るとか取らされる、という言葉は非常に重いものがあります。社会人において重大なミスをした責任、成果を出せなかった責任はイコールでありませんが、辞職というものに結びつくイメージがぬぐえません。ですから誰しもがそんな場面になど立ちたくないものです。そういう私自身も、サラリーマン時代は責任を取らなければならないような場面は、危険から逃れたいという恐らく本能でしょうか、極力避けていたように記憶しています。それでも営業マンとして結果の出ないときは重圧で苦しみました。そして自分が営業マンであることを呪ったりもしました。でも決して逃げはしませんでした。というより逃げられなかったといった方が正しいと思います。多くの人々は私と同じではないかと思います。本当は楽に生きたい、しんどいことはしたくない、責任など絶対に負いたくない、でも生きていくためには、しんどくて責任ある仕事でもやっていかなければならない。そう考えて生きている人々がたくさんいるのが現実ではないかと思います。
運よく社長になった私は本当に幸運でした。社長になったことが幸運なのではなく、社長になったおかげで学ぶ機会を想像以上に多く得られたことが幸運だったのです。そしてそれは今も続いています。社長の責任はサラリーマン時代のそれとは比較になりません。軽薄で徳が足りないせいか、思い通りにならないことの連続です。しかし、思い通りにならないことこそが、この世で最も価値あることと知り、お客様、社員、取引先、家族、友人、知人に支えられて、学び挑戦し続ける喜びを知りました。責任は重ければ重いほど、思い通りにならないことが多ければ多いほど、苦しみはより深くなり、それとともに学びはより一層深くなり、生きていることの有難さをしみじみと感じられるようになってきました。責任から逃れたいと思って生きていた時とは、比較にならない真の喜びがあります。V・E・フランクルのいうように私たちは、問われている存在なのです。「私は人生にまだなにを期待できるか」を問うのではなく「人生は私になにを期待しているか」を問うのです。過去も未来も関係ありません。現在がすべてであり、生きている、その瞬間こそが人生である。そしてその一瞬一瞬に精一杯の至誠で取り組むことは、楽な気持ちで楽に生きたいと願って生きている人生とは、全く別の次元に入り込んでいくことになります。そして、それこそが、うぬぼれかもしれませんが、まさに聖域と呼べるものではないのかと考えています。
学びは死ぬまで続きます。死んでも続くかもしれませんね。今日も負えるだけの責任を負って生きてきました。自己満足ですが満足しています。すべてのことに感謝します。 感謝合掌