思い出の詰まったマイホーム
あじさいの花が色づきはじめ、梅雨を感じる季節になりましたね。
こんにちは、家づくりサポーターの渡辺です。
以前からお話していますように、私には92歳の父がいます。母に先立たれ、自分で建てた築50年のマイホームに独りで暮らしていましたが、この3月に骨折し、一人で歩行ができなくなり、介護施設にやむなく入所してしまいました。
たまに、用事で帰りますが、決して豪華でもない家ですが、丁寧に手入れされた家や庭は荒れはて、もう誰も住んでいません。
父が30歳の時に母と結婚して私を産み、私が10歳(小学校4年生)の時に建てた家です。まだ、「マイホーム」ということばがない時代でしたが、結婚と同時に母に「家を建てる」と宣言したそうです。その当時、まだ、高度成長期時代の前で、敗戦で日本人は貧しく、「家を持つ」という夢を持つ人間が少なかったのだと思います。母はそのためにずいぶん苦労をしたとよくこぼしていました。
父の休みの日といえば(必ず日曜日が休みではなかったと思います。もちろん週休2日制なんてありません。)よく土地見学ツアーに連れて行かれました。宝塚や、阪神方面から舞子、垂水方面といった地域だったと思います。現地に着いても楽しい遊園地があるわけでもなく、何もない造成地を雑草をかき分けて歩いただけです。雑草のくっつき虫がやたら靴下について困ったことだけを覚えています。それでも、両親、弟たちと一緒にバスに乗り、知らない土地に出かけ、お弁当を食べるだけで楽しい思い出でした。
土地が決まり、父は夢のマイホームの設計を自分で始めました。模型を作って、何度もうれしそうに私に見せてくれました。口コミにより、大工さん兼工務店の社長さんでもあるH工務店さんを紹介されお願いすることになりました。当時、ハウスメーカーという存在はなく、それが普通だったのだと思います。素人の設計で、何度となく変更をしていた記憶があり、H工務店さんはさぞかし大変だったろうと思います。家が完成し、50年の間に、私と弟たちは育ち、結婚して出ていきました。父と母が残され、母が先立ち、父一人になり、施設に入所し、誰もいなくなりました。
私は母の生前からこの家を売ってはやりのシルバーマンションに住み替えすることを勧めていましたが、父はガンとして受け付けませんでした。子供たちの思い出の詰まったこの家に最後まで住みたいと言い続けていました。
急な骨折により、介助、歩行器なしでは移動できなくなりました。もう、あの段差の大きい古い家で暮らすことは不可能でしょう。もともと多くは語らない父ですので、本当のところは分かりませんが、今の施設の生活に満足していると言っています。しかし、時々、今の状況が解らなくなるのか、「家に帰らなければ・・」ということがあると介護の人から聞きました。
いずれは私が介護に専念して、思いの詰まったマイホームで最後まで暮らせるようにしてやりたいと思っていましたが、その思いが叶わず大変残念に思います。