~8月の矛盾~
2020年8月
8月15日の終戦の日を迎えるたびに、亡くなった母のことを思い出します。母は戦時中は大阪に居たものですから、度々空襲にあったそうです。母は生前この日になるとよく私に話していました。「もうこれで空襲が終わったとおもたら、それが一番うれしかったわ。戦争はもうこりごりや。2度と戦争したらあかん。ええことなんか何にもあらへん」母は兄(私の叔父)が中国で戦死したことをことのほか悲しんでいました。私のことを叔父の生まれ変わりとでも思っていたのでしょうか、少しでも危ないところへ行くことを、こころよく思っていませんでした。私が実家から神戸の自宅に帰るときはいつも「敬ちゃん、気つけや、安全運転するんやで」といつも心から私のことを心配してくれていました。今考えても本当に有難いことです。いくつになっても母が懐かしいと思うのは私だけでしょうかね。
また毎年8月になると広島、長崎の原爆投下のことが新聞やテレビで頻繁に取り上げられます。そして、ほとんどの日本人は核兵器は2度と使ってはいけないと固く信じています。ところが原発は核の平和利用だとして容認してしまう人々や勢力がまだ数多く存在することも事実です。私自身は原発はないほうがよいと考えながらも、住宅業界に身を置くため電気代の安い深夜電力は捨てがたいという、まったく矛盾した考えを持っています。はっきり言って自分でもずるいと思うことがしばしばで、大いに悩んでいます。
素人考えですが、原発はなくても国としては何とかやっていけるわけですから、電気代が少しくらい高くなっても、福島の現実を見てみれば、そんなことはたいしたことではない。それよりも、もし、今稼働している原発にどこからかミサイルが飛んできて命中したらどうなるのか。第2の広島、長崎、福島になるのではと、とても心配です。しかし、住宅屋を生業としているがため、安価な深夜電力を利用した給湯設備や暖房設備の提案が出来なくなれば、お客様の支持を失くしてしまうのではないか、とこれもまた心配してしまうのです。
私は常々、人生には皆、それぞれ使命があり、魂の格を上げる努力をしなければならない、また物質的豊かさを求めるのではなく、他者への貢献を通じて、精神的な豊かさを求める生き方をすることが大切である、と言っています。しかし、こと原発に関して言えば、私の言っていることは単なる綺麗ごとだ、と非難されても仕方がないことになってしまいます。
人間はどこまでいっても自分が大事であるという煩悩からなかなか抜け出せません。私がそうです。ここでいう自分が大事というのは、経済的に不利な立場になりたくない。これは突き詰めれば、お金という物質的欲望を捨てません、ということになります。全く矛盾ですね。しかし、会社を守ることは誓って私心ではありません。お客様、社員、弊社をあてにしてくれる取引先や兵庫県の森林を守っていかなければなりません。そのための行動はたとえ矛盾であっても、生き抜くために必要なものと考えます。いみじくも雑誌「致知」のなかで生命科学者の村上和雄先生がこう書いておられます。「ヒトを含め、今この地球上に生きるすべての生物は、生命の誕生以来、幾多の過酷な試練を切り抜けて生き残ってきたものの子孫です。何よりも自分の子孫を後世に残し、自分の種の生存を最優先することは生き抜くために必要であり、ある程度利己的であることは生きる術として遺伝子に組み込まれたものだと思います。その一方で群れて暮らす生き者たちは集団で生き残るための術として、他社を思いやる利他的な遺伝子を獲得したのだと思います」この言葉で少し救われました。有難いと思います。 感謝合掌