~花見~
~花見~
2021年3月
去年はコロナ真っ盛りのため恒例の明石公園には行かずに、伊川の桜を見ただけの寂しい花見でした。日本人の花見と言えば桜の木の下でシートを広げ、お弁当を食べる、合わせて一杯飲む、というものと考えているのは私だけではないと思います。しかし、相変わらずのコロナ渦です。明石公園は人でいっぱいのはずです。しかもネット検索したら「飲酒禁止」とありました。それは当然のことでしょう。そこで、今年も自宅から歩いて行ける伊川に、お弁当と日本酒とビールを持って妻と二人、花見をしてきました。例年よりも温かく最高のお花見日和になりました。空は黄砂にも関わらず青く、薄ピンクの花びらをより一層美しく引き立て、そしてその花びらは時折吹く風にヒラヒラと一枚、二枚と私のお弁当の中に舞い降りるのでした。本当に幸せなひと時でした。
今年は思うところあって、長生きをしなければと考え、そのためには節制の必要あり、と決心したばかりですが、如何せん自分の欲に勝てない情けない自分が昨日もありました。一体自分は、何十年も何を学んできたのか、あまりに言うことと、やることが一致しません。
今日、仕事で西宮の不動産業者のところに行ってきましたが、そこは見覚えのある所でした。三十五年前に住んでいたアパートの近くでしたので、少しアパートのあったところまで行ってみました。当然のことですがアパートはなく、そこには5階建てのマンションが建っていました。けれども郵便局や中学校や病院やダイエー(イオン)はその場所にあり、何よりも生まれたばかりの長女を背負って歩いた神社は変わらず、そのままの姿でそこにありました。とても懐かしく感じたのと同時に、神社の霊験に打たれたのか、どういうわけか分かりませんが、自分のこれまでの人生が走馬灯のように一気に思い起こされて来たのです。
私は妻や娘やお客様や社員や亡くなった両親に対して恥ずかしくない生き方をしてきたのか?残念ながら自信あります、とは言い切れません。昨日のお花見一つとってみても、このコロナ渦を考えれば、シートを広げることも、飲酒することも、やるべきではなかった。多くの人が仕事を失い、それこそ路頭に迷っている人々が大勢いるというのに、私は自分さえよければと、普段自分が声を大にして批判しているそのことをやってしまっているのです。
私は何十年も学んできましたが結局のところ、大した成長はしてこなかったようです。宗教学者の鈴木大拙先生は“塞がったところは、すでに何かものがあるので、そこでは受動が可能でないのです。何もないから入られる。自分に何かあると思うから入って来るものに対して抵抗する”と言われています。自分に何かある、はよく言えば信念ですが、悪く言えば思い上がりとなることもあります。私が学んだ何かは、後者の方であったかもしれません。
もっと謙虚にもっと厳しく生きる必要があります。そしてもっと働く必要があると思います。
同じく鈴木大拙先生はこう言われています。“『昔、一日作さざれば一日食らわず』と言った人があります。この『作す』というのは手足を動かすこと、働くこと、他のためにすることです。元来、生きるというのは動くこと、人間にあっては、働くことです。ですから、働くこと これが自利利他の原動力なのです。これで生きているとはなんであるかがわかり、したがって信仰が出てくる。『誠』がやしなわれるのです。”
私、死ぬまで働きます。 反省合掌