~バスの中で~
2022年5月
夕食時に妻がこんな話をしました。「お父さん(私のこと)、今日ね、三ノ宮駅でSさんと待ち合わせの約束してたんだけどね。私が先に着いたから、改札口の近くで彼女を待ってたらね、改札を出てきた若い女性に『どいて!邪魔!』と大声で怒鳴られたうえに、私を押しのけたのよ。私も、改札口の直ぐ近くにいたのはよくなかったけど、ほかに改札が4つほどあって、ほかの改札には誰も通ってないのに、わざわざ私が立っているところに出てきて、怒鳴るなんてね。私、ショックよ・・・」
そして、また別の日の夕食時に妻が話しました。「今日ね、いつものバスに乗ってたら、40歳代くらいの夫婦と思える人が乗ってきたの。どちらも身体障碍があって、女性は車椅子でバス停で待ってたの。男性もかなり足が不自由なのに女性の車椅子をたたんで、女性を支えて乗ってきたの。空いている席が一つしかないから、その女性がそこに座って、男性は立っていたから、私、その男性に『どうぞ』と言って席を譲ろうとしたけど、その人は『大丈夫です、有難うございます』と言われ遠慮されたのよ。きっと、奥さんのそばにいたかったんじゃないのかな。そしたら次のバス停でね、75歳くらいの手押し車の男性がバスに乗ってきたの。お父さん、なんと、その車椅子の女性は、その男性に『どうぞ』と言って席を譲ってあげたのよ。その男性は、その女性が車椅子とは思わなかったんじゃない。『有難うございます』と言って座ったのよ・・・」 私はその出来事を見ていませんが、妻の話を聞いているだけで感動しました。もちろん妻も感動したことでしょう。私が車椅子になった時、そんなことが出来るだろうか?と考えました。答えは絶対に出来ません、です。
最初の改札口の女性、虫の居所が悪かったのでしょうか?それとも、なにか別の理由があったのでしょうか?いずれにしても、私の妻だから言うのではなく、褒められた行いでないことは確かですね。それに対して、バスの女性は自分が車椅子の世話になっているのに、揺れるバスのなかで老人に席を譲るなんて、普通の人に出来ることではありません。きっと観音様の生まれ変わりか、天使が地上に舞い降りてきたとしか思えない方ですね。
以前に読んだ本の中のことです。誰が言っていたのか忘れてしまいましたが、多分有名な経営者(稲森和夫先生?)だったと思います。会議の場である役員が、ある出来事(おそらく悪い結果)に対して批判的なことを言った時です。多分その人はこう言ったと思います。「こういうふうにやれば、もっといい結果が出たんじゃないでしょうか」すると、その経営者は「その時、君は何をしていたのか?」と問うたそうです。誠に言い得て妙であると納得しました。今の世の中、評論家が多過ぎます。人がやったこと、やろうとしていることに対して、マイナス要素をあげつらって批判的にしゃべる人。テレビに出てくるコメンテーターと呼ばれている人なんかが、まさに、そういう人ではないでしょうか。それが仕事だから、しょうがないと言えばそれまでですが、聞いていて時々、不愉快になる時があります。そんなに言うんだったら、あなたがやってみたら、と言いたくなります。誰かがよかれと思ってやったことに対して、その場にいた人が、その結果をみて批判する、評論する。まさに「その時、あなたは何をしていたのか?」と言いたいです。 そう言いながらも、実は私も評論家になっているかもしれません。改札口の女性について、「褒められた行いではない」と評論していますから。私もそうですが、私たちは往々にして言葉にして言うだけで行動が伴わないことが多いと思います。人間たるもの評論家ではなく有言実行あるのみです。いや、無言実行の方が素晴らしいです。バスの車椅子の女性のように。 合掌反省