高瀬舟
森鴎外の代表作のひとつ「高瀬舟」を読みました。教科書にも載るような有名な短編小説なのでお読みになった方も大勢いらっしゃるかとは存じますが、あらためて、そのあらすじと言葉の一部を記しておきます。
“高瀬舟というのは京都の高瀬川を上下する船です。江戸時代、京都の罪人を大阪まで運ぶ役目も担っていました。罪人は本来なら死罪になるような罪を犯しているのですが、罪一等を減じられて流罪になった者たちでした。その船は、罪人とその親類を付添として一人だけ大阪まで同乗することが許されていました。そのなかに、ほかの罪人たちと違って、ただ一人だけでいる喜助という三十歳くらいの罪人がいました。護送している同心(役人)の名は羽田庄兵衛といいます。他の罪人たちは、打ちひしがれ、目も当てられぬほどに気の毒な様子をしているのに、喜助は夜になっても横になることもなく、黙って座っている。庄兵衛には、その額は晴れやかで目には微かなかがやきがある。いかにも楽しそうで、もし役人に対する気兼ねがなかったなら、口笛を吹き始めるとか、鼻歌を歌いだすとかしそうに思われた。
庄兵衛は喜助が弟殺しの罪で遠島を申し渡されたことだけを知っている。喜助の態度がおかしいので庄兵衛は喜助にそのわけを尋ねた。「——俺はこれまでこの舟で大勢の人を島へ送った。それは随分いろいろな身の上の人だったが、どれもどれも島へ行くのを悲しがって、見送りに来て、一緒に舟に乗る親類のものと、夜通し泣くに極まっていた。それにお前の様子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしていないようだ。一体お前はどう思っているのだい」喜助はにっこり笑った。「——-なる程島へ往くということは、外の人には悲しいことでございましょう。その心持はわたくしにも思い遣って見ることが出来ます。しかしそれは世間で楽をしている人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしの致して参ったような苦しみは、どこへ参ってもなかろうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣って下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の住む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云って自分の居て好い所というものがございませんでした。今度お上で島に居ろと仰って下さいます。その居ろと仰る所に落ち着いて居ることが出来ますのが、先ずなによりも有難い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい体ではございますが、ついぞ病気をいたしたことがございませんから、島へ往ってから、どんなつらい仕事をしたって、体を痛めるようなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるに付きまして、二百文の鳥目(お金)を戴きました。それをここに持っております。—–中略—–お恥ずかしい事を申し上げなくてはなりませんが、わたくしは今日まで二百文というお足(お金)を、こうして懐に入れて持っていたことはございませぬ。どこかで仕事に取り付きたいと思って、仕事を尋ねて歩きまして、それが見つかり次第、骨を惜しまず働きました。そして貰った銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買って食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。それがお牢に入ってからは、仕事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に対して済まない事を致しているようでなりませぬ。それにお牢を出る時に、この二百文を戴きましたのでございます。こうして相変わらずお上の物を食べていて見ますれば、この二百文はわたくしが使わずに持っていることが出来ます。お足(お金)を自分の物にして持っているということは、わたくしにとっては、これが始でございます。島へ往って見ますまでは、どんな仕事が出来るか分かりませんが、わたくしはこの二百文を島でする仕事のもとでにしようと楽しんでおります」
喜助の話を聞いた庄兵衛は思います。自分も僅かな給料をもらって一家七人が暮らしている。生活は苦しい。妻が時々実家から内緒でお金や物をもらってくるのを心苦しく思いながらも、何とか生活は成り立っている。しかし、そのことに満足感を覚えたことはなかった。そして、もしお役御免となったらどうしよう、大病を患ったらどうしようと将来の心配をしている毎日を送っています。それに対して喜助は、仕事を見つけるのに苦しんだ。見附さえすれば、骨を惜しまず働いて、食事に有りつけるだけで満足していた。牢に入ってからは、今まで得難かった食事が働かなくても戴ける、しかも持ったことないお金まで戴けた。島に送られる身の上のことなど一向気にならず、反対に、そのことに喜びを得たのでした。
庄兵衛は人の一生を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食っていかれたらと思う。万一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。蓄えがあっても、またその蓄えがもっと多かったらと思う。このように人はどこまでも際限なく慾を持つことを踏みとどまれない。その慾を踏みとどまって見せてくれたのが喜助であると庄兵衛は気付いた。そして庄兵衛は喜助に弟を殺したわけ尋ねた。
喜助兄弟はまだ小さい時に両親が流行病で死んだ。二人で苦労しながらも、何とか生き伸びてきたが、弟が病気になり働けなくなった。ある時、喜助が家に帰ると、弟は血だらけで布団の上に突っ伏していました。弟は自分が死ねば、口減らしになって兄の喜助を助けることが出来ると思い、剃刀をのどに突き立てたのでした。しかし、即死に至らず苦しんでいたのでした。弟はこの剃刀を抜いてくれたら自分は死ねると喜助に懇願します。喜助は最初は拒んでいましたが、弟の苦しみようを見るに見かねて、ついに剃刀を抜くのでした。そうすると弟は穏やかに死にました。そして喜助は弟殺しで奉行所に引き立てられていったのです。“
この小説は鴎外が同時に発表した高瀬舟縁起という文章の中で、翁草という書物に出ていた話であるとしています。翁草の著者は神沢杜口という京都町奉行所与力をしていた人ですから、意外と事実に近いものであると推察されます。
この話で私たちが学ぶべきものは、色々ありますが、その一つに「知足」すなわち「足るを知る」ということがあります。私の会社の行動指針は私自身がつくったものですが、「あるものに感謝し、無いものへの不満は持ちません」とあります。しかし、知足という言葉は知っていても、本当に喜助のような心持になっていたかと言えば、決してそうではありませんでした。昔の私は、社員と会社を成長させたいという経営者としての慾があり、羽田庄兵衛と同じように、病気になったらどうしよう、目標売上・利益が達成出来なかったらどうしようと心配し、日々、暮らしていけることに対して満足することはありませんでした。その後、少しずつですが、学んでいくことで前述のような行動指針を作成することはできましたが、これは自分自身に言い聞かせるために作ったものです。私は足ることを知らない人間でした。しかし今は運良く(緑内障になる)仏教の教えをほんの僅かですが、学ぶ機会を得ることが出来、足ることを知る喜びを感じ始めたところです。少しだけ成長したように思います。ただこれは私の心(魂)の成長であり、知足を知ったからといって、今の仕事の結果に満足して成長、改善を怠るということではありません。人間も会社も同じと思います。現状に満足して、成長、特に人間としての成長を不必要と考えた瞬間から、人間も会社も不幸な結末に向かって動き出す可能性が始まるのではないでしょうか。足ることを知ることはとても大切です。足ることを知れば喜助のように、心の平安が得られます。しかし、足ることを知ることと、現状に甘んじて精進を怠ることは全く違います。喜助は精一杯生きてきました。もうこれ以上出来ないというくらいの努力をし続けてきました。だから島流しになっても、そのことに喜びを見出すことが出来たのだと思います。皆さんはどう思われますか。解釈は色々です。30分ほどで読める短い小説です。是非ご一読ください。
発句経216番の言葉を最後に記して終わります。
「渇愛(むさぼり)より うれいは生じ むさぼりより おそれは生じん むさぼりを
離れし人に うれいなし いずこにか また おそれあらん」