結婚式

姪の結婚式に出席しました。結婚式に出るのは10数年ぶりです。

そこで驚きというか奇異というか、おかしな光景に出合いました。結婚式のほうでもそうですが、披露宴は特におかしいと感じました。出席者がやたらとスマホやカメラで写真を撮り続けるのです。例えばこうです。

式(教会)で後方から新婦がお父様に付き添われて入場してきます。もちろん私たち夫婦は後ろを振り返りじっと見つめます。

しかし、多くの参列者は撮影に夢中です。いかに商業ベースにのっかった式とはいえ、式は式です。儀式なのですから、もう少し厳かな雰囲気を醸し出すほうが新郎新婦の喜びも大きいのではないかと考えるのは、時代錯誤の熟年男の思考なのでしょうか。

披露宴では新郎新婦の入場でも、ウェディングケーキ入刀でも、両親への花束贈呈でも、すべてそうです。参加者の半数以上が撮影に夢中です。当然、拍手できません。いずれの場面も拍手がまばらで盛り上がりに欠けます。

本来、人間は感動的な場面では自然と拍手が出るものと思っていた私にはショックでした。結婚式は誰のために、何のためにするのでしょうか。二人で新しい人生を生きていく門出として、皆が幸せを祈り祝う。そういうものであると思います。参列者の姿からは二人のためではなく、自分のために、という感が否めません。

感動を正面から受け止めることなく、写真撮影に夢中を装っている姿は、本当の自分を偽っているとしか思えないのです。もっとも、新郎新婦に聞いてはいませんが、そんなことは一向気にしていませんという風でしたから、これはこれで昨今の風潮として、素直に受け入れなければならないのでしょう。

しかし、ひねくれ者の私は、やはりおかしいと思うのです。以下は私の偏見です。

最近、風邪でも花粉症でもないのにマスクをする人がやたら増えています。これはその人が匿名性を持つことの安心感に浸っているではと考えています。匿名性とは、簡単にいえば透明人間になったような気分、誰にも見られたくない、誰からも自分の本心を見透かされたくない、社交したくない、煩わしいことに関わりたくない、そういう気持ちではないかと思います。同じような装いとして、サングラスをかけたり、帽子を深くかぶったり、前髪を垂らして顔を隠したりすることがあります。いずれも顔を隠す行為です。式での写真撮影は顔こそ隠してはいませんが、本来なら沸き起こる祝福の気持ちを素直な言葉、表情で現すことができない結果ではないかと。これらの行為の最大の理由は「自分に自信がない」の一言に尽きると思います。なぜ自分に自信が持てないか?これがすべてではないですが、やはり親の愛が足りなかったのが最大の原因ではないかと推量します。親から無条件の愛を一身に受けて育った人は、この世はなんてすばらしい、あの人も、この人もみんな信頼できるいい人だ、と考えます。反対に、親から愛を得られなかった、又は条件付きの愛しか得られなかった人は、この世の中は敵ばかり、誰も信用できない、どいつもこいつも隙を見せれば自分に襲い掛かってくる、と考えます。だから自分を守ろうとして、自分を隠すのです。以上、上述を独断的、批判的と捉え、反感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、紙面の都合上とお許しください。

でも一度、素直な気持ちで考え直してみてください。厳しい競争社会、現代社会に生きる私たちには、あまりに愛が足りません。そう、私もです。