仏を探し求めて
2018年7月
今月のこの講は5月号に引き続き、阿純章著「迷子のすすめ」より仏教の寓話をそのまま転載します。
“お釈迦さまが悟りを開かれた後、苦しむ人々を救うために各地に教えを説いてまわっていた。お釈迦さまに会って直接教えを聞けるのは千載一遇のチャンスである。四人の男が、お釈迦さまがある町にいらっしゃるという噂を運よく聞きつけた。彼らの住む村からは数週間もかかる距離だったが、喜び勇んで旅の支度をして村を出た。道に詳しいものを先頭にして、一度も村を出たことがない旅慣れない男が後ろをついていった。出発して三日目のことである。突然、嵐に襲われて、一番後ろの男は先を歩く三人とはぐれてしまった。激しい風雨の中では歩くこともできず、通りすがりの羊飼いの家に助けを求めた。羊飼いはその男を家に招き入れ、上着と温かい食事を与え、一晩泊めてやった。翌朝旅支度をして出てみると、昨晩の嵐で羊たちがおびえて柵から飛び出してしまい、羊飼いが必死になって逃げ惑う羊たちを捕まえていた。今すぐ出発しなければ仲間たちに追いつけないと思ったが、一宿一飯の恩義を思うと羊飼いを放っておけない。その日の出発はあきらめて、一緒に羊を捕まえることにした。一匹残らずすべての羊を捕まえるのに三日を擁してしまったが、その後、再び出発し、仲間の足跡をたどっていくと、その途中、ある農家にたどり着いた。そこに住む女に井戸の水を分けてもらい、急いで出発しようとすると、その女は夫に先立たれて幼子を抱え、一人では畑の刈り取りができないと困っていた。ここでとどまれば完全に仲間に追いつけないと思ったが、男は決心して女を手伝ってやった。結局、収穫に三週間もかかってしましたが、男は再び旅に出た。そして、ようやくお釈迦さまがいらっしゃると聞いた目的の町に到着したが、お釈迦さまはすでに北の村に向かった後で、仲間ももういなかった。そこで男も北を目指し、あと一日で追いつくというところで、老夫婦が川に流されているのを発見した。男はすぐさま川に飛び込み助けたが、老夫婦は衰弱していたため、しばらく看病することになった。こうして男は、あと少し、あと少しというところでいつも何かが起き、お釈迦さまと出会えぬまま、各地を転々と旅し続けた。やがて二〇年という歳月がたち、お釈迦さまが涅槃(ねはん、亡くなること)に入られるという噂が流れた。この機会を逃したら、もう二度とお釈迦さまにお会いできない。今度は何があっても、自分も目的を遂げようと意を決し、わずかな食料を携えて一匹のロバに乗り、お釈迦さまが涅槃に入られる地へと急いだ。ところが、あと一息というところで、一匹の怪我をした鹿が道の真ん中で倒れているのを見つけた。誰かがついていなければきっと死んでしまうに違いない。だが、あたりを見回しても誰も見当たらなかった。そこで自分の持っていた水と食料をすべて鹿の口元に置いて立ち去ったが、しばらくすると鹿のことが気になり、引き返して鹿の看病をすることにした。夜が明けると、鹿も少し元気になってきたので、再び出発しようとしたが、時すでに遅し。お釈迦さまはその夜に涅槃に入られたのだった。男は地に膝をついて泣いた。すると、背後から声が聞こえてきた。「もう私を探すことはない」男はびっくりして振り返ると、そこには先ほどの鹿がお釈迦さまの姿になり、まばゆい光に包まれて立っていた。そして、こう言った。「もし昨晩私をここに残して立ち去っていたら、きっと私には会えなかったでしょう。あなたのこれまでの行いと共に私は常に一緒にいました。これからも私はあなたの中にいます」”
私たちは皆、人生に夢や希望や目標をもっています。そしてそれに向かって努力することが尊いことだということも知っています。でも夢や目標を達成できる人がどれほどの数いるでしょうか。恐らくは寓話に出てくる男のように、大半の人がたどりつかないのだと思います。それでは目標達成出来なかったからといって、その人間に価値はないのでしょうか。そんなことはありませんね。大切なことは夢や希望を達成することではなく、その目標に向かって進むときの言動、態度そのものに、溢れるほどの至誠があったかどうかであると信じています。この寓話は私たちにそのことを教えてくれているのではないでしょうか。