~合理化~
どの本で読んだかは忘れましたが、死を間近にした多くのアメリカ人が、全力を出し切らなかったこと、もっとチャレンジできたのではなかったか、とやらなかったことを後悔するそうです。奇しくも、私たちの会社が毎日朝礼で音読する鍵山秀三郎先生(イエローハットの創業者で掃除道で有名)の一日一話のなかに「本当のケチはお金を出さない人ではなく、頭や体を使うことを惜しむ人である」とあります。
妻に心理学用語の「合理化」という言葉を教えてもらいました。これは企業がよく使う生産性を上げるための合理化と少し違います。ウィキペディアには「自分にとって都合の悪い現実を、事実と異なる理由で隠蔽し正当化するなど、心理学的自己防衛を図ること」とあります。私は営業マンが売れない理由を数多く言い立てるのも、この合理化ではないかと考えます。業績の悪い会社社長が「この不景気では仕方がない」「うちの社員はレベルが低いから」「ライバル社のあの安売りには勝てるわけがない」あるいは上司が「あんな部下では、良い結果など出るわけがない」そして部下は「あの上司の下で結果なんて出るわけがない」と、これらはよく耳にする言葉です。そして、それらはみな合理化であろうと思います。都合の悪い結果をすべて他のせいにし、自分を正当化するのです。事実は違うはずです。業績が悪いのは全て社長の責任ですし、部下が結果を出さないのは全て上司の責任です。結果が悪いのは上司のせいではなく、自分自身の努力と工夫と忍耐が足りないからではないでしょうか。偉そうなことを言っていますが、かつての私は完全な合理化人間でした。最近はだいぶましになってきたかなと自分では思っていますが、妻はそれを否定します。
なぜ合理化するのか、それはやはり自分の弱さゆえであろうと思います。弱い犬ほどよく吠えると言いますが、これは事実です。弱い自分を守るため、事実でない言い訳をして正当化したり、虚勢を張ったりするのです。またプライドや面子にこだわったり、他を攻撃したり、批判、非難したり、怒鳴ったり、いじめたりするのも、やはり弱さの現れであろうと思います。なぜなら、本当に強い人でプライドや面子にこだわったり、人に怒鳴ったりする人を見たことがありません。プライドや面子や批判に一体どんな価値があるのでしょうか。これらは幼稚で低俗で低能な自己中心的人間特有のもので、何の価値もないと思います。負け犬の遠吠えと同じでしょう。
ではどうやったら、合理化しない強い人間になれるのか。鍵山先生のいうように、死の直前に後悔することがないよう、精いっぱい、惜しまず頭や体を使い、いつも人にやさしく、親切にすることです。どんなに自分に正当性があろうと、他を攻撃しないことです。そして人を信じ、人をゆるし、人を愛することです。ひたすらこれを続ければよいと思います。実行するための具体策は、今日一日どうやったら家族や社員やお客様が喜ぶのだろう、と一日一日想い、それを実践する。そして、それを繰り返す。一大決心するとかえって実行できません。今日一日でよいのです。どうやったら妻は喜ぶだろう、どうやったら会社の人は喜んでくれるだろう、どうやったらあの人の手助けができるのだろう。出来ることを精いっぱいやるのです。出来ても出来なくても、次の日に想うのです。どうやったら——–