~衛門三郎~

昨年11月に会社の旅行で松山の道後温泉に行きました。松山は亡父の出身地でいとこが大勢います。松山いとこ会と銘打って、ほぼ毎年のように松山に行っていますが、有名な石手寺(四国八十八箇所、51番札所)には一度も行ったことがありませんでした。今回は社員がとってくれたホテルが、たまたま石手寺に近く初めて参拝しました。お遍路の元祖といわれる衛門三郎(えもんさぶろう)の再来伝説ゆかりのお寺です。ここで衛門三郎の伝説を少し長いですが、ウィキペディアより下記に転載させて頂きます。

『天長年間のころの話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴荏原郷の豪農で衛門三郎という者がいた。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとしていた。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。八日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきで叩き落とした。鉢は八つに割れてしまった。実はこの僧は弘法大師であった。三郎には八人の子がいたが、その時から毎年一人ずつ子が亡くなり、八年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、何としても大師にめぐり合いたい気持ちから、今度は逆に回ることにしたが、巡礼の途中、阿波国の焼山寺(八十八箇所 十二番札所)の近くで病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、大師の望みはあるかとの問いかけに、来世は河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい、と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り“衛門三郎再来”と書いて左の手に握らせた。天長八年十月のことという。 翌年、伊予国の領主、河野息利に長男の息方が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧に祈願してもらったところ、やっと手を開いた。その手から“衛門三郎再来”と書かれた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に“石手寺”と寺名を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。』

 この伝説では強欲な衛門三郎が弘法大師に為した行為により、天罰のごとく子供が次々と8人も亡くなったとなっていますが、私は弘法大師がそのような無慈悲なことを願うわけがないと確信しています。昔は子供や大人が若くして亡くなるのは普通のことですから、きっと、偶然であったのではと思います。

そんなことよりも石手寺には、この寺の住職が記されたのであろう小冊子が置いてありましたが、その内容に私は強い自戒の念を掻き立てられました。内容は、「ある日、門前に老人が倒れていました。家に入れようとするも、あまりの悪臭に汚いものをつまむようにしていた。そこへ住職の師匠が来られ、抱きかかえて家に連れ込んだ。ふと思った。“私こそ衛門三郎である”何のことはない。今まで見下していた強欲非道の衛門三郎とは実は自分自身であったのだ。・・・中略・・・衛門三郎は実は私やあなたである。だれが、汚いどこのものともしれぬ旅の者を介抱するであろうか」全くその通りです。私たちは衛門三郎です。どこまで行っても、衛門三郎と同じく、自分や自分の家族が大事なのです。そしていつも損得勘定で生きています。このことをもって罪があるとは言えないまでも、真理の世界に向かって成長していく姿であるとは言い切れないと考えます。衛門三郎は全てを捨てて遍路の旅に出ました。彼の人生は弘法大師が現れたため、家族と富のすべてを失いましたが、最後は幸福の光に包まれていたに違いありません。

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