~土用の丑~

2022年7月

 土用の丑の日に鰻を食べるということは、よくニュースでなどでやっていますから、土用の丑という言葉だけは昔から知っていました。でも、土用の丑の日という意味は知りませんでした。今頃はネット検索すれば何でもすぐわかる便利な時代ですから、調べて分かりました。結構、複雑でした。子供の頃、母が今日は土用の丑だからウナギを食べよう、と言っていましたが、私は、「土用の丑」をずっと「土曜日の牛」と勘違いしていました。ウナギの別名を土曜の牛と呼ぶのだ。そう思っていました。それでも両親に道頓堀のうなぎ屋に連れて行ってもらい、土曜日の牛であろうと何であろうと、ひたすら、うな重の美味しさに幸せを感じていた子供時代のことを、この季節になると懐かしく思い出します。

 我が家は妻がしっかり者ですから、鰻が食卓に上ることは、非常に稀なことです。娘たちが家に居たころは、まだ年に2~3度、食すことがあったように記憶していますが、夫婦二人になって、はや15年くらい経ちますが、その間、回転すし屋を除いて、家で鰻を食べた記憶がありません。ところが、どういう訳か、この夏は、なぜか鰻が食べたくて食べたくてしょうがありませんでした。そこでいつも行くマルアイで1280円(税別)のパックされた鰻をつかんで妻に言いました。「お母さん(妻のこと)、これ自分で出すから買うよ」妻「なに贅沢言ってるのよ・・・・」1280円は中国産です。国産は1980円です。本当は日本産を食べたいのですが、妻が猛反対することを想定して、中国産を掴んだのです。マルアイの冷蔵庫の前で、数分やり取りがありましたが、めでたく15年ぶりに鰻をゲットしました。

 コロナ感染が爆発的になっています。私の周りにも感染者が多数出ています。政府は経済を回さねばならないとの理由で、規制はしないとの方針です。私の鰻も政府の方針にかなっていたかもしれませんね。そんな中を兄と二人で松山のいとこの四十九日法要に行ってきました。(二人ともワクチン4回目接種は終えていました)松山市三番町の観音寺は人数制限で20名までとなっていたそうで、ほかの沢山のいとこたちには会えませんでした。街中の小さなお寺の境内は朝から、厳しい日差しで影を求めて移動しますが汗は止まりません。行儀が悪いと知りつつ、やむなく黒の上着を脱いでの法要参加となりました。そして住職がお経を始める前に参列者に配る、なんという呼び名かは知らないのですが、お経を記した小冊子を手に取りパラパラと見ていますと、この一文が目に留まりました。「普回向 願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」意味は、私たちの願いは、今日行った四十九日法要という供養が功徳となり、その功徳が私たちだけでなく、全ての人々にも及び、そして私達とほかの全ての人々がとともに仏の教えに目覚めますように。というふうに私は理解しています。そしてその功徳はもうすでに前夜にありました。昨夜、兄と二人きりで多分20年ぶりくらいかと思います。三番町の魚料理屋で飲み食いしました。兄は仕事の関係で、長く東南アジアに生活拠点を置いていたため、日本でゆっくりと話ことは久しくなかったのです。お酒のせいもあったのでしょう。二人とも家族のこと、いとこたちのこと、仕事のことなどを話題に、コロナのことなどすっかり忘れて、饒舌になっていました。悲しいかな、いとこの死がもたらした兄との真の再会。仏様のお導きなのでしょうか。いずれにしても、私たちの人生で起こることには、きっと深い意味があり、大いなる何かによって導かれてい

ることは確かである。鰻を食べながら、そう感じた一日でした。         感謝合掌