~こだわり~
2017年8月
ここ数年、「こだわり」という言葉を良い意味で使っていることが流行っています。
弊社も自社の標準仕様をこだわりと表現し流行に乗ろうとしています。しかし、こだわりという言葉は本来は、どちらかと言えば否定的な意味合いを持った言葉です。私の持っている昭和44年発行の国語辞典には文例として「体面にこだわる」と表記されています。体面にこだわる、という言葉から善なるもの良心的なものをイメージすることには無理があると思います。ところが現在のネット辞書では「こだわりの逸品」「こだわりの旅」「こだわり続けた人生」として価値あるもの、評価されるべきものとして表記されています。言葉は時代とともに、その意味するところが変わっていくのは仕方がないことです。諸行は無常ですから。しかし、良心的でなく善とも言い難いものを、自分のこだわりとして、かたくなにそれを保持し続け、決して放さない人々がいます。私もその一人です。休日でも私は6時前には起床します。そして6時過ぎにはウッドデッキの椅子に座って、庭の木々や草花を眺めながら、小鳥たちの鳴き声を聴き、早朝の新鮮な空気とともに、ビール(第3のビール)を飲んでいます。妻には、その日が休日であることを心から実感させてくれる、無上の喜びの現れであり、また自然とのふれあいのひと時であると、薀蓄を垂れ、そして自分でそれを「こだわりの朝」と自分に言い聞かせ、自己満足の世界に浸っています。しかし結論からから言いますと、「ただの酒飲み」です。これが真実です。朝から酒を飲んで体にいいわけがありません。絶対に善ではなく、また良心的な行為でもありません。したがって、こだわりという言葉を使うのであれば、それは良心的で善なる行為でなければならいと、私は定義づけました。
私の「こだわりの朝」は単なる酒好男の慾であり執着です。ところで仏教では執着(しゅうじゃく)は捨て去るべきものとして説かれます。人間の一切の苦しみの原因は執着からくるものです。ですから執着を断ち切れば、苦から解放されます。ところが人間は生きたい、楽しい人生を送りたい、人から評価されたい、おいしいものを食べたい、旅行に行きたい、美しいものを見たい、楽しい音楽を聴きたい、と望みます。私もそうです。私はひねくれ者ですから、これらを執着と言い、苦しみの原因となるのであれば、敢えて執着しようと思います。そしてその結果、思い通りにならないことの連続に苦しみます。そこで、その苦しみから逃げずに、それを正面から受け止め、その苦しみに感謝し、克服すべく精進努力するのです。そうすれば、そこにこそ真の喜びを見出すことが出来るのではないかと思います。それに意外と、その時には執着(こだわり)から少し距離を置けるようになっているかもしれません。人間の未来は分かりません。明日、死ぬかもしれません。だからこそ、今を精一杯、誠実に良心的に生きる必要があると思います。出来れば、善でなく良心的でないこだわりは捨て、人の為になるこだわりに執着し、そして苦しみ、死んでいく。それこそが悔いのない幸せな人生であると信じています。飯田先生は「思い通りにならないことこそ、この世で最も価値あるものである」と説かれます。自分のつまらない慾にこだわらず、少しでも人が喜ぶ人のこだわりを理解し、そのことに協力する。そんな人間になりたいと願って止みません。