~至誠~
2020年9月
関脇の正代が大関に昇進しました。そして昇進伝達式の口上で「・・・至誠一貫の精神で・・・」と恒例の四文字熟語は“至誠一貫”という言葉を述べました。私は元来が至誠とは程遠い人間であったため、ことさらこの言葉に憧れ、今は座右の銘の一つとしています。特に今年の2月1日、いとこ会で松山に行った時、奥道後温泉の料亭の掛軸に、秋山好古(松山出身の軍人、日本騎兵の父と呼ばれ日清、日露戦争に従軍、司馬遼太郎著の“坂の上の雲”で後有名に)直筆の「至誠動天」の文字を見たとき、その思いをより一層強くしました。
大相撲のことで素人の私が言うのは、はなはだ僭越かもしれませんが、決まり手でよく引いて勝つときがありますが、見ていてあまり感動しません。それよりも激しく押し出したり、力強く寄り切ったり、投げ技で相手をひっくり返したり、の方がはるかに感動します。あくまでも素人の浅学意見ですが、引いて勝つのは至誠ではなく、至誠とは真逆の楽をして勝とうとしているように見えるのは私だけではないと思います。また、兵庫県出身の大関、貴景勝の「勝って奢らず、負けて腐らず」の名セリフも大いに至誠に通ずるものがあると感じ、また地元出身であることとも相まって彼を応援しています。新大関、正代と大関、貴景勝には是非とも、この言葉通りに引かずに相撲を取るという至誠を貫いて頂きたいと期待しています。
今思い起こせば、私の20代30代のサラリーマン時代はおよそ至誠とは全く反対の考え方を持っていました。多少の正義感は持ち合わせていましたが、サラリーマンにとって大事なことは、少しでも楽をして、少しでもたくさんの給料をもらうことだ、と恥ずかしながら本当にそう考えていました。そのような考え方をしていた頃は、とにかく不平不満の塊でした。そして、仕事がうまくいったらお客様や、周りの人に感謝することもなく、自分の手柄と有頂天になり、うまくいかなかったら、自分の努力不足(楽をして契約を取ろうと手抜きをする)を棚に上げて、いつも何かのせいにしていました。ですから幸せではありませんでした。楽をして契約を取ろうというのは、相撲で引いて勝とうとするのと同じです。そんなことが続くはずがありません。きっと神様、仏様のご意思だと思います。そして今、勝つことよりも、契約を取ることよりも、もっと大切なものがあることに気付きました。それは勝つため、契約を取るために精一杯の、もうこれ以上できないというくらいの努力をし続けることであり、その努力の一瞬一瞬そのものであると考えています。そこにこそ本当の喜びがあるのではないでしょうか。
元ノートルダム清心女子大学の学長でシスターの渡辺和子先生(故人)のお話を記しておきます。
アメリカの修練院で彼女が料理のお皿を130人分、テーブルに並べていた時のことです。修練長から「あなたは何を考えながら仕事をしていますか?」彼女は「別に何も考えていません」と答えました。何も考えていなかったというより、「なんで私がこんな仕事をしなくちゃならないのよ」と思っていたのです。彼女は大学院の修士課程まで出たうえに7年間のキャリアウーマンも経験した才女です。皿洗いや、お皿並べなどはほかの人にさせて自分はもっと高度な仕事がふさわしいと思っていたのでした。修練長から厳しく言われました。「あなたは時間を無駄にしています。同じ並べるのなら、やがて食卓につく一人一人の幸せを祈りながら仕事をしたらどうですか」そう言われて渡辺先生は、つまらない仕事だと思って嫌々仕事をすることは、時間をまた人生を無駄にしていることに気付かれたのでした。渡辺先生は“時間の使い方は命の使い方”と言われています。
私も渡辺先生や大関同様に至誠を貫く人生を生きたい、そう願って止みません。