~禍福一如~

2018年8月

2015年7月の講(無手の法悦)で取り上げました大石順教尼のことが雑誌“致知”で取り上げられていました。詳しくはその講を読んで頂ければと思いますが、簡単に言いますと、明治38年、養父によって両腕を刀で切り落とされた女性のことです。雑誌では彼女のことを映画にした女性監督が対談の中で、「よいことも悪いことも自分の心ひとつだよと教えられました。・・・中略・・・それまでは、外側の事実が自分をつくると思っていたんですけど、そうではなくて、私が出来事に意味を見出し、それを感じ取って生きていくんだと。・・・中略・・・外側に面白いこと、楽しいことがあるんじゃない。面白がる自分、楽しいと思える自分でいることが大切なんだなって今は思っています」

私は宇宙の法則として、この世のあらゆる存在、出来事は“水平になる”と信じています。水は必ず高いところから低い所へ流れます。熱も高いところこら低いところへ移動します。そして水も熱も水平になります。この法則は人生においても当然適用されます。よいこと(福)も悪いこと(禍)も同じだけやってきます。もっとも、大石順教尼は「禍も福もほんとうは一つなんだよ」と禍福に差はないと述べられています。そうはいっても私たち凡夫はなかなかこのような心境にはなれないものです。どうしても禍が少なく福が多いことを願ってしまいます。学校の試験の成績がよければうれしいし、志望校に落ちれば悲しい。好きな異性と結婚できればうれしいし、振られたらやはり悲しい。出世して給料が上がればうれしいし、ボーナスが出なかったらさびしいものです。しかし、冷静によく考えてみてください。“禍福は糾える縄のごとし”という言葉もあります。よいことと悪いことは繰り返しやってくるという意味なのですが、もう一歩踏み込んで、大石順教尼の言われるように、よいことも悪いことも、実は同じなんだ、人生において良いこととか悪いこととかという結果は、実は自分や世間の主観(思い込み)であって、そこにはたいした価値はないと気付くはずです。なぜなら人間は必ず死ぬ、そしてその時、その人は形あるものは何も持っていくことは出来ない、という厳然たる事実があります。この事実を前にして、試験に落ちた、受かった、出世した、しなかった、結婚した、しなかった、得をした、損をした、お金が儲かった、儲からなかった、病気になった、病気が治ったなどという世俗の出来事(結果)は、長いようで本当は一瞬にしか過ぎない人生のなかでは小さな泡粒ほどの存在でしかないのです。

人間は2足歩行することによって脳が発達し、明日の食べ物を心配するようになりました。やがて、明日の食べ物の心配が、将来の自分の地位や財産、病気、老後や死への不安となり、いつも悩み苦しむようになってきました。そして行き着いたところが杞憂(天が落ちてくるのではないかと心配した人)ですね。時々思います。犬や猫や鳥や魚は明日のことを心配しているのだろうか。5年前に死んだ我が家の犬は、ガンに侵され、おまけに認知症でしたが、死ぬ数日前まで散歩に連れて行けとせがんでいました。きっと、自分が死ぬなんてこと、これっぽっちも考えていなかったと思います。ただ生きようとしていた立派な生き方でした。聖書にも書いてあります。「明日のことを思いわずらうな」と。将来の損得を心配する生き方は、決して楽しい生き方ではないと思います。今、目の前の善と思えることを精一杯やるだけでいいのです。損得そのものには意味はありません。禍福は一つなのですから。

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