苦は喜び

私は飯田史彦先生から教わった生まれ変わりについて、長く勉強してきました。そして今また、少しずつですが仏教の勉強をしています。その歩みは、その難しさ故、とても遅いものですが、そのなかで最近気づいたことがあります。飯田先生は「思い通りにならないことこそが、この世で最も価値あることである」と言われています。私はこの言葉のお蔭で、多くの苦しみを乗り越えてくることができたように思います。また自分は死んでも、魂となって、また再び人間に生まれ変わることができる、という思想は、私には現実として真実として、私に深い喜びと救いをもたらして頂きました。誠に有難いことです。

 一方、紀元前に生きた仏教開祖の釈尊は「人生は苦である。精進せよ」と言われています。飯田先生の「思い通りにならないこと」はイコール釈尊の「苦」と同じではないかと、思うようになってきたのです。人生における幸せの定義は数多くありますが、もし、幸せの定義を、人間として成長し、そこに精神的な喜び、救い、心の平安を見出すことであると仮定したら(私はこれが幸せと定義しています)思い通りにならないことや苦は絶対に必要なものとなり得ます。そしてその苦は大きければ大きいほど、人間をより大きく成長させ、結果、より大きな救いと喜びを得ることができるのではないか、と考えるようになりました。

 イエローハット創業者の鍵山秀三郎先生は雑誌「致知」のなかで「人間というものは、楽な環境に身を置いている間は決して成長しません。自分の能力をはるかに超えることを求められる環境に身を置いた時に、初めて人間は成長していくものなのです」と語っておられます。この言葉は非常に厳しい言葉です。自分の能力をはるかに超える環境に身を置くことなど、はたして凡人の私に出来るのか。自分の能力を少し超える環境ならいざ知らず、遥かに超える環境、想像しただけでも逃げ出したくなります。しかしそれこそが、まさに苦である、と言わねばならないのでしょう。仏教を勉強すれば、するほど過去多くの僧が、このような想像を絶する苦難を耐え忍び、ひたすら精進し続け、その生きたあかしを書物にされ、あるいは口伝され、後世の私たちに生き方として教えてくれています。ありがたいことです。

 しかし、私のこのような考え方に否定的な人々が存在していることも事実です。人生一度きり、死んだらすべては無に帰す。せっかく人間として生まれてきたたった一回きりの人生、出来るだけ楽をして、楽しく暮らせたらそれでいいじゃないか、と病気でもないのに働きもせず、お国のお金で生活する人。仕事はしているが、いくら働いても給料は増えないから難しいこと、しんどいことから逃げ回り、少しでも楽なことだけやっておこう、という人々。以前の私はこのような人々に批判的な考え方をもっていましたが、今は反対に彼らに感謝するようになりました。決して反面教師としてではなく、純粋にです。なぜなら、これらも苦であるからです。思い通りにならないからです。思い通りにならないことは、この世で最も価値あることと心から信ずれば、自分を幸せにしてくれる苦には逃げず立ち向かい、そのことに感謝しなければならないからです。釈尊が言われた通り人生は苦の連続です。それは神や仏が人間を救わんとして与えたもうたものです。精進すれば必ずや喜びとなるのです。