雨ニモマケズ

皆さんは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩をご存じだと思います。少し思うところあって、この詩を読みなおすことにしました。原文はカタカナですが、読みにくいのでひらがなで全文記します。
 「雨にも負けず  風にも負けず  雪にも夏の暑さにも負けぬ  丈夫な体をもち  慾はなく  決して怒らず  いつも静かに笑っている  一日に玄米四合と   味噌と少しの野菜を食べ  あらゆることを  自分を勘定にいれずに  よく見聞きし分かり  そして忘れず  野原の松の林の陰の  小さな萱葺の小屋にいて    東に病気の子供あれば  行って看病してやり  西に疲れた母あれば  行ってその稲の束を負い  南に死にそうな人あれば  行ってこわがらなくてもいいといい    北に喧嘩や訴訟があれば  つまらないからやめろといい  日照りの時は涙を流し  寒さの夏はおろおろ歩き   みんなにでくのぼーと呼ばれ  褒められもせず  苦にもされず  そういうものに  わたしはなりたい」
私は宮沢賢治の本はあまり読んだことがありません。たしか「よだかの星」という童話を学校で習ったのと、小説「風の又三郎」を読んだだけです。このあまりに有名な「雨にも負けず」も最初の「雨にも負けず、風にも負けず」までしか覚えていません。ところが何気なく読んでいた住宅本の中にこの詩が出ていたのです。読み終えて、これだ!と感じるものがありました。そしてもう一度、読み直しました。今度はなぜか涙が少し滲んできます。私もこういう人間になりたい。素直にそう思う自分があります。でもなれない。私は”雨は好きだが(大雨の被害にあってないから言える)、強い風はきらい、雪は好きだが(雪国に暮らしてないから言える)、夏の暑さにも弱く、体はそこそこ、慾はあり、よく怒り、いつも静かに眠っている、・・・・・・でくのぼーと呼ばれたくない、褒められたい・・・・・・” すべて正反対です。でも、あこがれます。だからこそ憧れるのだと思います。
 以前、妻によく言われていたことがあります。「お父さん(私のこと)は”理想化と脱価値化”の名人ね」つまり、ある人や、ある考え方、ある書物に出合うと、一瞬にして、それにのめり込んでしまう。そして時間が経ち、それがたいしたことがない、と知ると今度は意図的に無視したり、批判したりする、そういうことらしいのです。昔、そう指摘されてからは自分ではそれを克服したと思っていました。でも、性根は変わっていないのだと思います。無視したり、批判することはもうありません。でも、一瞬にしてあこがれ、理想化する癖は今もあります。居直るつもりはありませんが、そのことを知ると同時にそれに憧れ、理想化することは悪いことではなく、私が私であるゆえんであると思います。この詩を読んで、たとえ、そうなれない現実があっても、そうなりたいという想いを持ち続けることは、やがて、現実化するための最低条件だと考えています。想わなければ、絶対に実現できません。
いつの日か、必ず、こういう人間になってみせます。みなさん、応援して下さいね。