~宝の山~

“迷子のすすめ”(阿 純章著)という本を読みました。その中にニューヨーク州立大学病院医療センタ―内のロビーの壁に、ある詩が掲げられているそうです。その詩を紹介します。

渡辺和子氏(キリスト教の修道女、ノートルダム清心学園理事長、故人)の訳です。

   『大きなことを成し遂げるために力を与えて欲しいと、神に求めたのに

    謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった

    より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに

    より良きことができるようにと、病弱を与えられた

    幸せになろうとして、富を求めたのに

    賢明であるようにと、貧困を授かった

    世の中の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに

    得意にならないようにと、失敗を授かった

    人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに

    あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった

    求めたものは一つとして与えられなかったが

    願いはすべて聞き届けられた

    神の意にそわぬものであるにもかかわらず

    心の中で言い表せないものは、すべて叶えられた

    私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ』

この詩の作者は南北戦争の時に負傷して入院した患者であるとか、イエズス会の神父J・ロジャー・ルーシーであるとか言われていますが、実際は分からないそうです。どちらにしてもこの詩が私に一息つかせてくれたことは事実です。最近、私は精進とか至誠とか全身全霊、使命達成、精一杯とかの言葉にとりつかれ、ひたすら努力することの大切さを自分に言いきかせ実践してきました。もちろん今でもそのことの大切さを否定することなど絶対にあり得ません。ただ人間は弱いものです。これらの言葉のもと“自分はこれだけやっているのに・・・・”とどうしても結果や見返りを求める心が拭い切れません。仏教ではこれを貪りとか煩悩といい強く戒めています。以前この講でも記しました。結果を求めてはいけない。結果にはたいした価値はない。それよりも目標に向かって努力している過程そのものに価値があるのだと。

今回、この詩にめぐり合えたことは本当にラッキーでした。どのような人生(結果)であろうと、今、自分のいるところが最高の場所なのだ。あらためて、そのことを教えてくれました。著者は言っています。「どのように生きても、それが人と違っても遅くても早くても、どこにいても、今立っているところが一番いい場所だ。・中略・それに気がつかずに『宝はどこだ、どこだ』と探し求めて、小さな宝を拾い集めて喜んだり、うっかり失くして嘆いたりしているが、ここが宝の山であれば、わざわざ探しに行くこともないし、拾い集める必要もないはずだ」この言葉は決して今の現状に甘んじよということではありません。人生にはいつも課題がついて回ります。その課題を解決するために最善の努力が必要であることは言うまでもありません。ただその努力の結果が思い描いたことと違っていたとしても、それはそれで、宝の山に頂にいるということなのです。人生には幸福も不幸もない。ただ自分の思考がそれをつくりだしているだけでなのです。