二宮金次郎(尊徳)
“二宮金次郎の生涯と知恵”というテーマの講演を聴きました。講師は金次郎から7代目の子孫にあたる中桐万理子さんという女性でした。この講ではこの講演の内容を記したいと思います。講演の主催は、弊社が所属している「もりの木ネットワーク」という組合です。
学校では二宮金次郎というよりも、二宮尊徳という名前で学んだように思います。皆さんも尊徳と言えば真っ先に、背中にマキを背負い読書している、あの姿を想い起すことでしょう。そしてイメージとしては“勤勉”を想います。しかし講師は「金次郎は本よりもマキが大切。つまり、勤勉よりも勤労を優先した」と。つまり学んで知っているというだけでは何の意味も価値もない。それを言葉にし、行動に現してこそ意味がある。学ぶのは言葉にし、行動するために学ぶのである。金次郎は農業改革者として、100万人の餓死者を出したといわれる6年続いた天保の大飢饉で、彼が関わった村では一人の餓死者も出さなかった。そして生涯に600以上の村を再建していった徹底的な実践主義者であったのです。
次に“積小為大”という言葉を教わりました。読んで字のごとく、小さなことを積み重ねていくことで大きなことが為る、ということなのですが、金次郎は特に“小”にこだわりました。幸せの種は“小”にある。小さなモノ、小さなこと、小さな変化を大切にし、決して見逃さない。天保の大飢饉の時も、ナスの味や種のわずかな変化から飢饉を予測し、稲を植えずに、冷害に強いヒエやアワを植えることを村人に指導し、結果、村を救ったのでした。
今回、私が学んだ最大のことは、「頑張れば報われるという考え方を金次郎は否定した。頑張っても報われないこともある。頑張れば報われるという考え方は、つまり見返りを求めるということである」意外でした。金次郎と言えば勤勉、勤労。何か黙々と学び、そして働く。そんなイメージですから、頑張り屋であった。だから成功し、名も遺した。その金次郎が、“頑張れば報われる”を否定したのです。報われるということを私たち凡人は往々にして、金持ちになる、名誉を得る等々の世俗の成功を思うものです。そうではなく、彼は人間は生きているだけで既に充分報われているのだ、そして幸せは生きている瞬間に次々に起こる小さなできごと、その中にこそあるのだ。講師は言われました。「自分に対しては厳しくあっても、生きているだけで100点です。家族が元気であればプラス30点、仕事があればさらにプラス20点、何かができればまたプラス40点と加点法で採点し、決して100点から減点して人を評価してはいけない」 生きているだけで既に救われ、さらに報われている幸せ者が人間なのです。だから「頑張って幸せになろう」ではなく「幸せだから頑張ろう」であり「頑張れば報われる」ではなく「頑張って報いよう」という生き方を金次郎は説いたのでした。
あのマキを背負った像は「幸せだからがんばろう」「がんばって報いよう」と見返りを求めない勤勉勤労に絶対的価値を見出し、そこに人生の意義があることを訴えているのだと気付かされました。私にこんな生き方が出来るかどうか分かりませんが、少なくともこのことを学び知り、素晴らしいと感じたのですから実践し挑戦するのみです。応援して下さい。