無手の法悦
無手とは文字通り、手が無いということです。法悦とは辞書に「仏法を聞いて味わう喜び」と書かれています。著書「無手の法悦」は大石順教という両手の無い尼僧によって書かれたものです。以下に大石順教尼の略年譜を著書より抜粋して記します。
明治21年 大阪道頓堀「二葉ずし」の長女として出生。本名 大石よね
明治32年 山村流の名取りを許され踊りの師匠となる
明治34年 堀江山梅楼 中川万次郎の養女となり、西川流舞踊を習う
明治38年 養父 中川万次郎の狂乱のため一家六人がその刃に倒れ、ただ一人両腕を
切り落とされ生き残る。
明治45年 日本画家 山口草平と結婚
大正 2年 長男誕生
大正 5年 長女誕生
昭和 2年 夫、山口草平の不倫により協議離婚。画筆に専念しながら身体障害者婦女子の福祉相談を始める
昭和 8年 高野山にて出家得度 法名順教と改める
昭和37年 世界身体障害者芸術家協会会員として東洋で最初に認証される
昭和41年 ドイツのミュンヘン美術館で個展を開催し、多大の感銘を与える
昭和43年 「無手の法悦」初版刊行 四月二一日、遷化(八十歳)
大石よねは「妻吉」と名乗り、大阪堀江の山梅楼で芸妓をしていた時、養父、中川万次郎に両腕を日本刀によって切断されるのです。この講では、そのいきさつは記しません。明治34年、妻吉17歳の時のことです。ただその時、家にいた他の5人は同じく日本刀により殺害されました。世に言う「堀江六人斬り事件」のことです。瀕死の重傷を負った妻吉でしたが運よく一命をとり止めました。その後、生活のため大阪で寄席に出たりしていましたが、やがて地方巡業に出るようになりました。もともと踊りの山村流名取りとなるくらいでしたので、長唄や小唄の芸も身に付けていたようです。ただ、お客は妻吉の長唄、小唄を聴くというより、おそらくは「堀江六人斬り」の生き残りとして両腕の無い妻吉見たさ寄席に足を運んでいたのでしょう。客席はいつも満員であったそうです。
明治四〇年、巡業で仙台にいた時のことです。旅館の庭の梅の枝に小さな鳥籠が吊るしてありました。その籠の中には卵を抱いているカナリヤがいました。雌が卵を抱き、雄は雌の口の中に餌を運んでいます。翌々日にその卵がかえり、小さな雛はピイピイ鳴いています。当然親鳥は雛に餌を運んでいます。一部本文より『—–この小さな籠の中で何の不安も悲しみもなく、雛の成長を喜んで、ほがらかに歌いながら立派に家庭を楽しんでいます。この鳥たちは羽根があっても手が無い、しかもその自由に飛べる羽根は、小さな籠の中なので、限られた場所より動きがとれないのです。けれども、懸命な鳥たちは、手のないことも自由に飛べないことも嘆いてはいない。—–中略—-手のないことがなぜ悲しかろう。不具者がなんだ、私にはカナリヤと同じ口があるではないか。しかも私の体は自由に何処へでも行くことができる。—–中略—–私は字を知らない。けれども口で字を書くことができたら、私はどんなに楽しかろうし、私は努力しよう。カナリヤのように努力しよう。そして字を学ぼう』妻吉、一九歳の時でした。こうして妻吉は口に筆をとることを思いつき、独力で書画の勉強に励むのでした。私も妻吉に習ってマジックを口にくわえて挑戦しました。私は字を知っています。しかし5分もしたら涎がとめどなく出てきます。何よりも紙を抑えることができません。もちろんその字は体を成していません。字を知らなかった妻吉がどれほどの苦労を重ねてきたか、きっと想像を絶する血のにじむような努力を続けてきたのでしょう。
やがて両腕を失うという不幸のどん底から、筆を口に含むことで大きく変化していく妻吉でした。しかも、その1年前と推測します。両腕を切り落とした養父、中川万次郎を刑務所に面会に行き、そこで「—-決してお養父さんを恨んだりしまへん。お養父さんが死にはったら骨を拾って必ず供養します。お墓も建てます。——」と彼を赦すのです。普通は絶対に出来ないことです。何の罪もない自分の両腕を切り落とした相手を、いかにその養父が死刑になるとはいえ許すなどということはまず出来ないことです。未熟な私などには絶対に出来ないと思います。それでも妻吉は許したのです。(中川万次郎、明治40年2月、死刑執行)
明治41年には演芸の世界から引退し、その後、文学を学びつつ絵更紗帯を描き生計を立て、離婚後は画筆に専念しながら身体障害者婦女子の福祉相談等の活動も始めます。昭和8年には口筆により観音教を写経し、高野山に納め、出家得度、大石順教と改めるのでした。
昭和28年、自身の両腕(アルコール漬けにしてあった)を高野山奥の院に“腕塚”として納骨するきっかけとなった嫂とのやり取りで順教はこう言っています。嫂が自分たち本家の墓にある順教の両腕を引き取って欲しいと頼んだ時のことです。嫂「—-誰やかて死んだら極楽へ行きたいと思うてる人ばかりやないか。こんど生まれてくるときは、手ありになって生まれてきたらええがな。——-あんたが死ぬときその手を棺桶のなかに入れてもろたら、こんど手ありになって生まれるやないか」順教「それは嫂さんちがいます。私は十七歳のときまで手はありましたけれども、それから今日まで手なしになって、そりゃ悲しいこともありました。けれどもいまは手なしのほうが幸せだということをつくづく喜んでいます。—–
私は死に変わり、生きかわり、この有難い手なしをもって、身体障害者の人たちのよいお友だちになりたいのです」なんと順教は生まれ変わっても、手なしがよいと言っているのです。
これも驚きです。私のような凡夫には測り知れない高潔な精神、宗教心があったのでしょう。
少しでも、近づきたいものです。私は大石順教尼の一生から多くのことを学びました。
まず、どんな逆境にあろうとも、強い意志さえ持ち続ければ、必ずものごとは成し遂げられ、最後には心の平安を得られること、どんなに憎い相手であっても、その罪を赦すこと、その罪を赦すことで、自身が大いなる力から救われるということ、天が自分に与えた使命をきちんと掴んで、それを実践すること、等々、こうして書いてしまえば、なあんだと思われるでしょう。しかし実行するのは並大抵のことではありません。
著書の最後の言葉を記して今月は終わります。共に生活している足の悪い女性との会話です。女性「先生、もう少し分かりやすく教えて下さい」
順教「そうね。生きていくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったらわかるかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ」